グイノ神父の説教


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                             年間弟14主日  200876

         ゼカリア9,9-10       ローマ8,9;11-13     マタイ11,25-30

  何年か前に、アフリカのルワンダで人民の大虐殺がありましたが、ある司祭が、一人の少女が苦労して急傾斜の小道を登ってくるのを見ました。 彼女は背中に、ひどい傷を負った子供を背負っていました。 しかしながら二人の子供はほほえんで、幸せそうに見受けられました。 「あなたが背負っている荷物はとても重そうだね・・」と司祭はこの少女に言いました。 「いいえ、重くありません。 それに、これは荷物じゃありません。 私の弟です。」と子供は答えました。 この子供の知恵は、愛に支えられていれば、重く見える荷物も、度々軽くなるということを、私たちに思い出させてくれます。 私たちの努力の中に愛がある時、荷物はもはや荷物ではなく、人生の一つの経験になります。 私たちはお互いに支えあう必要があります。 今日、キリストが私達に話されるのはこの事です。 もしあなたのくびきがとても重ければ、あなたが愛する人々のうちにそれを置きなさい。 特に神にそれを差し出しなさい。 その時から神はそれをあなたと一緒に持ってくださいます。 神は永遠の愛です。 幸せも不幸せも神のうちに置かれなければなりません。 神の愛のうちにあって、全ての荷物は軽くなります。 それは合理的ではありません、が、私たちの信仰の中に置かれた神秘です。

 「荷物を持って苦しむ人は皆、私の許に来なさい。 そして私はあなたに休みをあげましょう。」 こう言いながら詩篇5523節「あなたの重荷を主に委ねよ。 主はあなたの為に計らい、支えてくださる。 主は あなたがゆるぐのを、とこしえに許されない。」という忠告を繰り返されます。 このようにイエスは神の望みを繰り返して言われます。 神は私たちの人生すべてが彼に寄りかかるように望まれます。 神は私達の疲れ、涙、苦しみを取り除こうとはされませんが、一人で持って行くにはあまりにも重くなったものを、すべて彼に捧げることのできる勇気を下さいます。 イエスは私たちの人間的条件を刷新するためにその条件と一つになられ、私達に神の子としての自由の喜びを下さいます。

  前の話の中で、ルワンダの市民戦の悲劇的な情況は、怪我をしている弟と努力している姉の、二人の子供が幸せである事の妨げになりませんでした。 喜びは自分以外の他の人と結び合う事でしか得られません。 この他の人とは、兄弟、隣人、友人と神ご自身です。 イエスに重荷を差し出すことは、彼の喜びに入る事です。 このことは、私たちの心に、聖霊が、イエスとの類似を刻み込むように許すことです。 イエスに自分を差し出すことは、「心が柔和で謙遜な」方のようになろうと望むことです。 それはまた私たちのみすぼらしさ、限界、挫折でさえ愛されている事が確実であることです。 その故に、賛美と感謝は私達の心に宿るのです。

  聖霊に従がって生きること、つまり、それは、一人ひとりが向かい合って優しさと謙虚と尊敬を持って、お互いに仕えあう事を目的とすることです。 これは私達を神に近づけ、キリストに似たものとする選びです。 これはまた私達を神の御国の建設に積極的に参与させる選びです。 反対に肉に従がって生きることは、権力と権威と軽蔑と普通は暴力の論理に従がって生きるのを望む事です。 これは私達を神から遠ざける選びです。 実際、一番である事、一番偉いこと、一番強いことを望むとき、そして総てを持っている時、人は神を必要としません! あまりにもうぬぼれの強い時、あまりにも自分に値打ちがあると思っている時、あまりにも傲慢な時、その人の中には、自分のためにしか場所がなくて、他の人のためには何もありません。 

  イエスが話しておられる小さい人は、すべてが必要だとよく知っています。 彼らは何も持っていないからで、彼らにすべてを与えることの出来る方のほうへ、手を差し伸べます。 ためらう事なく、彼らのほうへ差し出された神の腕に、自分を投げ出します。 というのは、神の愛に信頼を置いているからです。 小さい人たちは自分たちが相応しいかどうかを知ろうと質問したりしません。 彼らは自分の心の飛躍に従がいます。 また、イエスは、神の腕の中に自分を投げ出すこれらの小さい人になるように私たちを招いておられます。 それはキリストのように、心の柔和で謙遜な人でなるように学ぶ為です。 ですから、自己主義と傲慢を捨てましょう。 余す所なく、神に私たちを捧げながら、もっと、もっと愛することを選びましょう。 それは、神だけに、私達はこの無限の愛を見出し、喜びは私たちの全荷物を軽くするからです。
アーメン

                  

                             年間15主日    2008713日 

             イザヤ55,10-11     ローマ8,18-23    マタイ13,1-23

 
「神のみ言葉は実りを得る為に大地をうるおす慈雨のようなものである」と、預言者イザヤは語っています。 神が話されるとき、その言われた事を実現し、あらゆる予測を上回る成果をあげられます。 そして、それが関わっているのは被造物全体であると、聖パウロが明言しています。 苦しくて神秘的な変化の後で、全被造物は「神の子の自由と栄光に与る」ようになります。 神の造られたもので消えるものは何もなく、すべては栄光化されます!

  ときには、障害物が私たちの周囲に蓄積し、私達の努力は空しいままだと思われます。 種撒く人の例え話によれば、イエスは、すべては良い結果で終わり、最終的な結果は素晴しいものになるだろうと言う態度を持ち続けながら、この難しい時を生き抜くようにと、私達に求められます。 ですから、私たちの内に、神のみ言葉を受け入れるのは、絶対に必要不可欠な事だと言うことになります。 何故ならこの言葉は、とても効果的で、その使命を成就する事なしには結果を得ることはありません。 神のみ言葉は、土地に撒かれた種のようなものです。 それは生命、幸福、力、成長の約束です。 しかし、それには種がよい土地に落ちる必要があります。

  種まきの例え話で、イエスは、神のみ言葉が無駄になって、害を与えるものになる責任は私達にある事をお隠しになりません。 この失敗は、食べられ、乾燥し、息がつまり、風に飛ばされる種で表されています。 実際に、神は無駄に種を撒かれるように見えます。 しかしながら、スタートの失敗にも関わらず、それでも、すべての期待を超えた収穫が生じます。 良い土地に落ちた種の例外的な収穫高は、悪い土地で受けた明らかな挫折を大きく埋め合わせるでしょう。 しかし、イエスはもし種が空しく撒かれるなら、それは種を撒く人、つまり神の間違いではなく、かえって、神の言葉に私たちが対立する妨げによると、はっきり説明されます。 そして、イエスは主要な妨げを列挙されます。

  第一の妨げは無関心です。 神のみ言葉が望まれない時は、神の言葉が聴かれるのは不可能で、、従がって神のみ言葉を受け入れることは出来ません。 第二の妨げは傲慢です。 私たちが教理の勉強で学んだだけで、神を充分に知っていると考える時、必然的に私達は神の知識についてのあらゆる進歩を打ち切る事になります。 第三の妨げは、私達の欠点、不完全、罪、私達の魂が抱え込んでいるすべてのもの、そして、私たちにそれを根絶する勇気がないことです。

  そこで、私達が神のみ言葉を聴く時、私たちがどんな土地であるべきかを知る為に質問しましょう。

   私達は石ころだらけの小道のようになって、人から離れていて、すべての宗教的期待に無関心で、教会のあらゆる招きに対して閉ざされた道でしょうか? または、私達は全く上辺だけに置かれた、腐植土と同様で、この世界の出来事に簡単に心を乱しますが、教会の出来事に対しては鈍感な心を持ち続け、受けた恵みにあまり感謝しないのではないでしょうか? 更にまた、私達は神の言葉を聴かないようにする偏見や中傷や恐れや嫉妬などのいばらに覆われている畑でしょうか?  そしてもし私達がよい土地であると考えるなら、やはり、神のみ言葉を私達のうちに受け入れるために、また100倍の実を結ぶ為に、一層の努力するのではないでしょうか?

 「種まく人は種まきに出かけました」この短い言葉は、神が決して刈り取る人ではなく、むしろ種まく人であることを理解するのに充分です。 神は与えられる方であり、与えたものを取り返す方ではありません。 神の手は支え、立て直す命の力で、押しつぶし、死を与える手ではありません。 イスラエルの民は約束された救い主への期待のうちに、種まく人を期待したのではなく、力をもって正義を行い、悪を決定的につぶす刈り取る人を期待しました。 この例え話を通して、イエスは、この考え方を否定されます。 彼はご自分が誰であるかを示されます。 ご自分の身分を啓示しながら、イエスはご自分がいい加減に種を撒き散らす不器用な種まく人ではない事を示されます。 彼は、自分の信頼を差し出し、私たちの協力を求められます。 聖パウロが語っている被造物のうめき声とは、先ず、辛抱強く、希望を持つ種撒く人であるキリストのうめき声です。 それはまた、私たちの心の奥底に、神のみ言葉を聴き受け入れる土地を探される聖霊のうめき声です。 結局、それは私たちの父である神のうめき声です。 神はみ言葉の実りが充分見えないので苦しんでおられます。 このうめき声はいつか私たちの声にならなければなりません。アーメン。

               


                            年間第16主日  2008720

                知恵12,13;16-19   ロ−マ8,26-27  マタイ13,24-43

 
 この世で単純なものは何一つありません。 完全に黒い物もなければ、完全に白いものもありません。善いものと悪いものは解きほぐしがたく結び合わされており、正義は不正義と紙一重で、愛は憎しみから遠くありません。 穏やかな人がきわめて暴力的になり、度々悲しみは喜びに変わります。 悪はあらゆるところにあるので、寛大さの中に利己主義を見出すことさえ出来ます。 私達はよりよい世界、完全な教会を望みます。 しかし、私たち自身の心に、例え話の麦と毒麦のように、善と悪が隣り合っています。 私達は善い事と悪い事をきちんと見分けて、離す事が出来ません。 そもそも、そうしなければならないのでしょうか?

  イエスはこれを努力する人々に忠告されます。 いつも何世紀にもわたって、自分の気に入らない物事を、引き抜き、排除し、壊してしまう事しか考えない人々がいました。 この人々は、如何なる良心の呵責もなしに民族大虐殺を行う所までいきました! イエス、彼はこの世界に、教会のなかにさえ、善いものと悪いものの混在を受け入れられました。 生涯にわたって、私達の間で、イエスは罪人に厚意を与え、清いものであると自負しているファリサイ人を偽善者と非難して、スキャンダルを引き起こしました。 御父と同様にイエスも、忍耐強い方で、人の心をよく知っていました。 イエスは人の良い行いは度々、高慢の悪賢い形のもとに隠れている事をご存知でした。 イエスはまた、外面的な欠点が本当の特性を隠している事もご存知でした。

  私達は他の人が変化する事を望みます。 私達はいつも他の人の回心をゆっくり待つ忍耐がありません。 しかし、イエスの方法は小さい歩幅でゆっくり進むやり方です。 彼は忍耐強く、慎重です。 彼は善い種と毒麦が共存する一人ひとりの人の心を愛し、尊重されます。 イエスは私たちの世界の毒麦の中に、一つの善い種として埋められるのを望まれ、それから予測されるすべての危険を引き受けられました。 彼は種まきの時と収穫の時との対照性、からし種の小ささとここから出て、そびえる木との対照性、イーストの少なさと膨れるパンの大きな塊の対照性をご存知でした。

  勿論、神は御国の完全な成熟を早くご覧になりたいでした。 しかし罪によって壊れやすいこの世に対しての思いやりから、徹底的に忍耐されます。 神は、しばしば物事を上手く整えることの出来る時と言うものに信頼を置いておられました。 また人に信頼を置いておられました。 というのは、彼らに、発展し、進歩するために必要な可能性を与えられたからです。 そして聖化し、愛の完成へと導く為に、この世で働かれる聖霊を信頼されました。 神は全能であると、知恵の書に書かれています。 が、神は「寛容をもって」裁き、「大いなる慈悲をもって」治められるとも、述べられています。 神の似姿として創造された私達は、寛容をもって裁き、大いなる慈悲をもって、行なわなければなりません。 それは現在の姿が問われているのではなく、神が私達、皆に準備しておられる栄光の未来に期待されているのです。ショックを受け、眉をひそめる様な事を、あまり見ないようにしましょう。 が、空の鳥が皆集まってくる大きな木を想像する様に努めましょう。 とても小さなからし種のこと、つまり私たちの卑小なつまらなさを忘れて、木にとまって囀る小鳥たちの事を直ぐに考えましょう! そして忍耐強く、謙遜に、主の日を待ちましょう。 そうしたら、私たちの喜びは果てしなく続きます。 イエスは私達に「忍耐によってあなた方は命をかち取りなさい」と前もって予告されました。(ルカ2119節)

  その通りです。 この福音が私達に与えようと望んでいる教えはこれです。 悪に直面して、神の忍耐、特にその信頼を真似ましょう。 何故なら刈り入れはよい結果で終わるでしょうから。 不貞の婦人は赦され、放蕩息子は父のもとへ帰り、よい盗賊は天の喜びに受け入れられ、ペトロはその否認から立ち返りましたが、それは神が忍耐強く、信頼しておられたからです。 知恵の書の朗読では、「罪ある者に神は赦しを与えられる」と宣言しています。 悪を悪いと宣告しましょう。 しかし、いつも兄弟を罪人とすることは避けましょう。 むしろ彼らに対する責任を感じ、神に向かって一歩一歩、歩いていく事を先ず私たちが示しながら、彼らを助けましょう。 アーメン。

             

                           年間17主日     2008727

        
 列王記上35,712節  ローマ人への手紙82830節  マタイ134452


  イエスは話を聴きに来た人々の関心を捉えるために、いろいろの美しい話を考え出しました。 私達は3つの小さい例え話を聞いたばかりですが、これを覚えるのはとても易しいです。 神の王国は、畑の中に埋められている宝物のように、あるいは、計り知れず高価な小さい真珠のように隠されていると、イエスは言われます。 神の王国はまた、魚で一杯の網のようなものです。

  今日、福音で話される宝物は、物質的なものではありません。 大変高価な極上の真珠は、福音の教え全体のシンボルではありません。 網は信徒全体が集まる教会のことではありません。 そうではなくて、確かに、宝物も真珠も網も人であって、それはつまり、神で、父と子と聖霊です。 信徒である私たちの宝物は神、ご自身です。 この事がよく分かる為に、イエスのほかの言葉を思い出さなければなりません。 それはマタイの福音の中に見つかるのですが、「あなたの宝物のあるところに、あなたの心もある」(マタイ6章21節)と言う言葉です。 私達の宝物は何処でしょうか? つまり私達の人生の何処に神はおられるでしょうか?

  ソロモン王とともに、私たちも神に「識別の恵に満たされた聞き分ける心」を願いましょう。 神の目の前に大切な事とは、私たちの良い意向ではなく、私達の日常の態度、主要な関心事と、私達が神との関わりを持つ望みと、私達が神の事をどれ程気にかけるかという事です。 ソロモンの知恵はまた私達の知恵でなければならず、それは神の言葉を聴くこと、また神から値打ちのあるものに対する愛着を受けることです。

  神は控えめで、目に見えません。 しかし神はすごく驚くような宝物、または高価な真珠として、私達のとても近くにおられ、神ご自身が選ばれるその時に、突然見つけられるというような権利を、しっかりと持っておられるのです。 しかし、私達は絶えず捜さなければなりません。 そして神がご自分を見出させられる時、私達は同時に、神なしには自分がいかに空しいかを見出します。 神の発見はすべての犠牲がなんでもなくなる喜びを与えます。 人はもっと手にいれる為にすべてを捨て、限りなくもっと自由になる為に自分の自由を失い、命を守る為に命を失います。 神の王国に入る為に、イエスが私たちにしなさいと勧められる根本的な選びはこれです。 例え話の中の二人の人物のこのような愚かさは、彼らにとっては喜びの充満なのです。 この決然とした態度はすべてのキリスト信徒の態度でなければなりません。 これは神の王国の喜びにはいる為に支払う値段です。 そして、神が下さるこの言語を絶する喜びはすべての犠牲を消して、ブランクにします。 というのは、本当の愛はつまり、愛することと愛されることで、それ以外の事を全部忘れさせ、だから、あらゆる事を断念するより前に、神は喜びを与えてしまわれるのです。 イエスは「この喜びのうちに、持ち物を全部売り払う」と言われます。 消え去らないものを選ぶ為に、不必要なものから離れるのは値打ちがありますが、きわめて重要な事を見つけるために、すべて消え去るものから自由になるのには値打ちがあります。 終わりのない愛を選ぶほど大きな幸せはありません。

 「主は私に与えられた分です。 み言葉を守る事を約束します。 あなたの口から出る律法は私にとって幾千の金銀に勝る恵みです。 それゆえ、金にまさり、純金にまさって、私はあなたの戒めを愛します。」(詩篇1195772127)と私たちは答唱詩篇125で歌いました。 もしキリストが本当に私たちのキリスト教的生活の宝物であるなら、残りのものはすべて空しいものです。 私達が神のみ言葉を聴こうと耐えず注意を払わない限り、言うのは易しいですが実現するのはとても難しいです。

  今日、イエスはこの3つの例え話から、この地上に於ける私たちの人生の目的が何であるかを、私達に分からせようと望まれました。 それは神と共に永遠に生きるために、神を発見する事です。 世界の豊かさと誉れは、私たちの命における主の現存と比べるなら、灰と埃のようなものです。 ですから、私たちにおけるこの神の現存を少しずつ自覚するようにしましょう。 そして特に、私たちの心の奥底に栄光に輝きながら隠れておられる方を発見するのは、神のみ言葉を度々聴くことによってだという事を忘れないようにしましょう。 アーメン  

    

                       年間18主日    200883

          イザヤ5513   ローマ人への手紙8353739  マタイ141321

  砂漠は先ず小石の多い土地で、どのような植物も目に入らない砂地です。 都市の真っ只中にあって、そこで沢山の人が孤独に苦しんでいる砂漠もあります。 今日、イエスは「ひとり人里から離れたところ」に退かれます。 が、群集はイエスに先だってそこに行っています。 憐れに思われて、イエスは病人を治し始められます。 彼は説教をされませんが、癒しを与えられます。 そのとき突然、この砂漠は生命のある場所、刷新の場所、出会いの場所となります。

  しかし既に日は落ち、人々は空腹を感じ始めます。 使徒たちは何か食べ物を買うために、群集を行かせてはどうかと心配し始めます。 しかし、イエスは彼らに他の解決策を提案します。 彼は「あなたがたが彼等に食べる物を与えなさい。」と言います。 イエスは大きな事をするために、小さい事を必要とされました。 群集の飢えを満たすのに5個のパンと2匹の小さい魚で充分です。 その上、残ったものまであります。 使徒たちのしがない捧げものは、砂漠を分かち合いと豊かさの場所に変えました。

  きっと、丁度この時に、使徒たちはイザヤ預言者の言葉を思い出しました。 「飢えている者は来なさい・・・」「渇きを覚えているものは来るがよい・・・・銀を持たないものも来るが良い」 使徒たちは、イエスが永遠の命のみ言葉を持っておられる方である事をも発見しました。 その上、イエスから全ての命が生じることも発見しました。

  パンの増加はまず、理解できない奇蹟ではありません。 それは神の賜物に関わる事で、使徒たちが与えて、キリストが受けたものから湧き出た神の賜物です。 パンの増加よりもっと、私達を驚かせたものは、差し出された神の賜物の豊富さです。 イエスは病人をいやし、群集に食べ物を与え、皆にとって慰めの泉でした。 彼はこの愛と慈しみの行いを果たすために、夜が来るのを待ちました。 というのは、イエスは彼の周りに居るすべての人に、他の飢え、他のパンを与えようと望まれました。 この夜の食事は、まるで聖木曜日のキリストの最後の晩餐をあらかじめ示されたようでした。 この夜にこそ、イエスは多くの人に与えられる命のパンになられるでしょう。 別の夜に、エマウスの宿において、絶望している二人の弟子の慰めとなられるでしょうし、また別の夜には、初代教会の信徒たちがミサ祭儀(ユーカリスティ)を執り行う習慣をつけるようになります。

  そのわけは、ユーカリスティは実に、私たちの夜を輝かせる為に与えられた秘蹟なのです。 命のパン、命の光であるイエスは、私たちの心に暗黒が忍び寄ってくる時に、何時もそこにおられ、私達が独りぼっちだと感じ、無関心の砂漠の真只中に迷い込んでいる時に、何時もそこにおられるのです。 ユーカリスティは私たちの信仰の頂点で、癒しや、激励や、慰めをもたらす、御言葉のパンと御体のパンをくださる信仰の頂点です。 聖体の秘蹟によって、イエスは心の深い平和と愛に満たされた現存となられます。

  勿論、私たちはまだ度々、砂漠の砂の上を苦労して歩いたり、道の石にぶつかったり、神への飢えと乾きを知り、試練や疑いを通して歩かなければなりません。 例え神が隠れたり、黙っていたりしても、全ては既に変容されました。 「私達の主、キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離す事はできないのです」(ローマ8,39)といわれています。 目に見えないが、そのみ言葉とパンの謙虚な印のもとに、イエスはいつも私達の心の飢えを養おうと来られます。 同時に、彼は私達を取り巻く人達と私達のもっているものを少しばかり分かち合うようにと、私達を招きます。 イエスは本当に、私達の慎ましいささげ物を増やそうと望まれます。 それは、彼が使徒たちに対するのと同様に私達に、「先ず、あなたがたが、平和、喜び、赦し、正義、または、ただ単にパンを与えなさい」と言われるからです。 イエスは私達を必要とされ、私達を通して、ご自分の正義、喜び、平和、赦しとパンを渡そうとされます。 その時になって、イエスは神への飢えと乾きを私達に与え始められ、私たちの希望をはるかに越えて、満足させてくださるのです。 アーメン。

                       

                               年間第19主日   2008810

     列王下199,1113節   ローマ人への手紙915節   マタイ142233

   今日のテキストは、私達を両極端の間で揺れ動かします。 一方では暴風があって岩をめちゃくちゃにし、山を崩し、地震があり、火、不可解なあらしがあり、恐怖や恐れがあります。 他方では、微かなそよ風のつぶやきや、夜の静けさや、イエスの平和な眠りや、神やその神秘の発見があります。

  偽りの神バールの礼拝をイスラエルに導入しようと望んだイゼベル女王に反抗した為に、エリヤは死の淵に立たされました。 彼女に追われており、恐怖に追い詰められて絶望した人、エリヤは、神と出会いに行く為に、イスラエルから遠く離れたモーセの山まで逃げました。 洞窟の孤独のうちに、夜のそよ風の沈黙のうちに、神との深い一致を体験しなければなりません。 神の現存に励まされて、彼の恐怖は消えました。 イスラエルの民の中で、自分の使命を果たしに帰ることが出来ます。 イエスご自身、度々、御父と心と心をかよわす為に静かな時をさがされます。 理解されず、時には、がっかりして、イエスは独りで山へ行かれます。 ファリサイ人の絶え間ない批判から離れて、夜の静けさと祈りの沈黙のうちに、力を取り戻されます。 神との親密さのうちに、イエスはいつも、使命を続けていく勇気を取り戻されました。

  落胆と苦悩の間に、自分のうちに、また他の人に対して信頼を失い始めた時、私達もまた、祈りの静けさと神の励ましの現存のうちに、新しい力を発見しなければ成りません。 いつもなさり、また繰り返してなさるように、イエスは私たちと出会いに来られるでしょう。 夜のさなかに、荒れ狂う湖で不安に揺れ動く弟子たちと合流したのと同様です。 復活の夜、エルサレムに残っているか、または、エマオへの道を歩む落胆した弟子たちに、彼は平和と喜びを持ってきます。 そうです。 イエスは私たちとの出会いにいつも来られます。 それが落胆の夜であろうと、疑いのもっと深い闇であろうと、何時もそこへ来られます。 

  度々、信仰の姿と、懐疑者の姿が、ペトロのイメージに交替に出てくるのですが、私達は混乱の水の上を歩き、水の深みに沈み込みます。 それは私達がうぬぼれていて、私たち自身の力にだけ頼ろうとするからです。 しかし、謙虚に、祈りの中に私達の力強さを汲み取る時に、私達がイエスを信頼を持って眺める時に、この世の荒々しい水を、恐れることなく、通り抜ける事ができます。 「そして二人が舟に乗りこむと、風は静まった」と述べられています。 もし人が自分自身を信用せず、イエスを信頼するなら、すべて静まります。 風も、波も、心もです! 信じることは、人生の荒れ狂う激流を信頼を持って歩む事であり、強固な地にむかって、キリストによって導かれるままに委ねることです。 このミサ聖祭において、私達に「来なさい」と言われる主のほうを眺め、恐れずに、彼のほうに行きましょう。

  それには、主ともっとよく出会うために、神だけと出会う場所にいるように私たちに勧められます。 イエスは私達に「安心しなさい。私だ。恐れることはない」言われます。 というのは、神に対する私達の信仰を証するために、先ず、私達は謙遜に、そして個人的に、祈りの静けさの中に彼を捜し、彼の存在の忘れがたい経験をしなければなりません。 その時、たしかに私達はイエスの使徒たちと共に、「主よ、本当にあなたは神の子です」と言うことが出来ます。

  神の恵みのインスピレーションのもとに、ペトロは「私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と頼みました。 ただ御父だけが、おん子イエスにむかって歩く恵を人に与えることが出来ます。 「父からお許しがなければ、誰も私のもとに来る事はできない」とヨハネ665節に述べられています。 神の恵みなしには、誰もキリストに「私に命令して、あなたの近くに行かせて下さい」と言うことはできません。 ペトロは肉体的にイエスのところへ行こうと望みました。 それはうまくいかず、結局彼を救う為にイエスは手を差し伸べられました。 私達は、霊的にイエスのところへ行かなければなりません。 神の恵みが私達にとって、欠ける事はないとよく解かっています。 そして、また彼の近くに行くと必ずイエスが私たちの手を取って、父である神まで私たちを導くことも知っています。 聖母マリアが毎日、信仰の中に歩む私たちを注意深く見守ってくださるように。 アーメン。

           

           
                       年間第20主日    2008817

         イザヤ56,1;6-7  ローマ人への手紙 11,13-15;29-32  マタイ 15,21-28

   預言者イザヤによって、イスラエルの人々の信仰に、新しいはずみが与えられました。 神の神殿に入る事は、ユダヤ人だけにとっておかれたものではなく、「すべての民の祈りの家」となります。 イザヤは勇気を持ち、あえて、存在するものすべてを造られた神は、例外なしにすべての人の神であると言います。 この宣言はエルサレムの神殿の祭司たちに非常に悪く受け取られました。 というのは、彼らは神から受けた特権は自分たちだけにあると考えており、神がすべての人に与えたいと望んでおられる新しさを受け入れることは出来なかったからです。

  使徒パウロは同じ問題にぶつかっていました。 ローマの信徒への手紙の中で、キリストによって全人類に差し出された救いを信じることに対する、イスラエルの人々の拒絶を考えています。 イエスの家族や使徒たちは全部ユダヤ人で、初代教会のキリスト者たちは特にキリスト者になったユダヤ人の集まりでした。 しかし異教徒からの改宗と共同体の中における彼らの存在はユダヤ的精神構造(メンタリティ)とぶつかりました。 避けがたい仲たがいが生まれ、聖パウロはそれについての責任はユダヤ人にあると認めています。 ところが、この仲たがいは神の約束を中断するものではないとも断言しています。 イスラエルはずっと選ばれた民です。 神の忍耐と摂理は、いつかキリストを世の救い主として受け入れるように、イスラエルを導くでしょう。 しかしながら、聖パウロにとって世界中に広がったキリストの教会は、この時から神の望まれる新しいイスラエルなのです。

  いつも、常に神の望まれる普遍性と一致を受け入れる事は難しいです。 だから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は唯一の神に信仰告白をしながらも、これらの宗教を分けている相違は非常に大きいです。 キリスト者自身、自分たちの信仰の性格を主張するために、言葉を付け加えます。 カトリックと東方正教会とプロテスタントです。 この考え方はしばしば私達を伝統に凝り固まったり、偏見に支配されている集団的孤立の状態に閉じ込めてしまいます。 自分達と同じ立場にいる人達は暖かく迎え入れますが、これに反して、他の人達を警戒し、彼らを異端者、敵、異教徒とかってに考えてしまいます。

  自分の確信に閉じこもったファリサイ人との、「清いか不浄か」についての空しい口論の後、イエスはイスラエルの「彼らの聖なる土地」を去りたい思いに駆られ、「不浄な異教徒の土地」へと急いで行かれます。 イエスはご自分のメッセ−ジに反対する「イスラエルの子ら」から去る事を選ばれます。 昔からの敵で、犬のように取り扱われている異教徒の処へ行くと、イエスは偽善に汚されていない、健全な信仰をいつも見出す事をご存知です。 確かに、悲嘆にくれた母親という一人の人間の中に、イエスは誠実で深い信仰を見出します。 マタイは、彼女はカナン人であったと古風な表現で述べて、カナン人はイスラエルの民の最初の敵であった事を思い出させようとしています。 イエスの少々厳しい言葉は、この婦人に揺るがない信頼をうながします。 というのは、彼女は言われた事を注意深く聞き、直ぐにそれを役立てたからです。 典型的ユダヤ的挑戦で、例え犬のように取り扱われようとも、母としての彼女の心は、苦しむ子供をそのままには出来ませんでした。 何でも出来るイエスに対する彼女の完全な信頼、さらに、どんなことがあっても、どんな障害をも越えて、自分の娘子を救わなければならないという彼女の母親としての使命感から来る信頼がありました。 彼女の反論がイエスの心を動かし、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。 あなたの願いどおりになるように」とイエスは言われました。

  表される信仰の度合いにしたがって、神はいつも私たちの願いを聞き届けられます。 その証は、イエスが癒される時、いつも「あなたの信仰があなたを救った」と言われ、決して「私はあなたを救った」とは言われないことです。 神はある人の値打ちを、その属している階級や宗教に従って判断されず、人間としての資質や信仰の資質に従って判断されます。 私たちが嫉妬や軽蔑によらずに、人のうちに見つける良さや美しさを賞賛する能力を持つ者であるように、イエスは望まれます。 このように愛すること、それは神の方法で愛することです。 それは「私があなたがたを愛したように、互いに愛しあいなさい」と私たちに言われたイエス・キリストを見習う事です。  イエスは皆の為にこられ、私たちがただ単に「普遍的なキリスト者」、つまり、皆のためのキリスト者である事を望まれます。 私達は神の神殿ですから、イザヤ預言者が「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と言った事を実現しましょう。 即ち、イエスにおける私たちの信仰が、私たちの心をキリストに似たものとし、すべての人の受け入れの場所となりますように。  アーメン 


                                 

                              年間21主日   2008824

        イザヤ221923節  ローマの信徒への手紙113336節  マタイ161320

   イエスはご自分について人々がなんと言っているか知りたいと望まれます。 人々の意見は皆同じで、昔の預言者のように、イエスは神から来られた特別な人であるという考えです。 しかしイエスにとって人々の意見は重要なものではありません。 その時、彼は私達個人に関係のある本当の質問、「あなた方は私を何者だと言うのか?」を投げかけます。 これは恐るべき質問です。 というのは、他の人について誰かに話すのはいつも易しいからです。 他の人について話すことは大して役にたちません。 ですから、イエスは「あなたは何と言うのですか?」「あなたがたは私を何者だと言うのですか?」と訊ねます。 この質問でイエスとの対話に入るように私達は招かれています。 そして疑いもなく、ペトロと同じように聖霊の恵を受け入れて、良い返答を宣言するように招かれています。 もし私達に確実な返答が出来なければ、「主よ、あなたがどなたであるか私は知りません。 私を照らして、あなたの聖霊をお与えください」と告白するほうが賢明です。

  ペトロは御父に照らされてイエスが誰であるかを「あなたはメシア、生ける神の子です」と宣言します。 今度はイエスの番で、彼は互いに補い合う3つの聖書的イメージを使って、ペトロが誰であるかを宣言します。 シモンは先ず、新しい名前を受けます。 それは「ペトロ、ケファス」つまり岩で、キリストの教会が永続する土台を保証するものです。 次いで彼はキリストの教会の鍵を受けます。 あなた方の鍵、それも全部そろった鍵の束を誰かに渡した事がありますか?  誰かにその家の鍵をあずけるということは、絶対的な信頼の印です。 そういうわけで、第一朗読では預言者イザヤを通して、神が新しい総裁エルヤキムに支配権とイスラエルの王国の鍵を委ねたと述べています。 最後にペトロは結ぶ権利と解く権利を受けます。 彼はイエスご自身の代理人となって、この時から彼の行いのすべては神の責任の下に置かれました。

  このようにイエスはペトロに首位性を与えることで教会が何であるかを啓示しました。教会はペトロのように「あなたはメシア、生ける神の子です」と信条表明をする者の共同体です。 救い主であるイエスを認識する者たちはこの教会に所属します。 教会は神の王国です。 何世紀にもわたって、教会は愛の完成を目指して歩んでいます。 キリストを信じる人は、誰も教会を拒否して神のところへ主張しに行く事はできません。 昔、「教会の外に救いはない!」と度々繰り返されました。 この言葉は3世紀のカルタゴの司教であった聖キプリアヌスから始まりました。 迫害のせいで信仰を捨てて、教会を離れようとした者に、このようにして救いを拒絶するのだと思い出させました。 「母として教会を持たない者は、神が自分の父であると主張する事はできない」とキプリアヌスは言いました。 イエスと一致するには必然的に教会を通ります。 一人ひとりのキリスト者に、ペトロ自身が「イエスに近づきなさい。 あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」(1ペトロ24,5節)と言います。 教会はその教えと秘蹟によって、既に私達を永遠の財産を所有する者とします。 教会は私たちにイエスを、つまりすべてを与えます。

  しかし、教会はこの宝物、つまりキリストが与える一致を「土の器(壊れやすい器)」(2コリ4章7節)に入れています。 罪人で形作られて、それは転倒して、改心します。 第二バチカン公会議では、「教会は聖であると同時に身を清めるように招かれています。 悔悛と刷新の努力を絶え間なくし続けるように」と明言します。 教会は神からきた光のなかに、部分的に浸されますが、残りは人々が与えた暗闇の中にまだ留まっています。 私達の教会はこのようなものです。 教会には神の聖性の豊かさと人々の手段の貧しさがあります。 キリストの体として教会はイエスの托身を続けますが、イエスは御自分の貧しさによって、私たちを豊かにするために貧しくなられました。(2コリント8章9節参照) 神を見つけ、真理のうちに留まるために教会は欠かせないものです。

  そうです。 私達が真理のうちに神と出会い、神と対話し、日常生活を神に捧げ、すべてを神から受けるように教会は絶えず招いています。 私達皆が、信じている方をもっと深く知ろうと言う希望を、自分の内に持たなければなりません。 勿論、私たちは信仰と疑い、使徒的熱意と霊的怠慢の間でしばしば右往左往するでしょうが、聖霊による助けによって、既に私達はペトロと全教会とともに、「あなたは救い主、生きる神の子です」という事ができます。 アーメン



                     年間第22主日      2008831日

     エレミヤ2079節  ローマ人への手紙12章1,2節  マタイ161127

  前の日曜日、ペトロは主の教会の基礎を作る岩として、また王国の鍵の管理人としてイエスから任命されました。 今日、イエスはペトロを靴の中の石のようなもの、道で人を躓かせる石のようなものとして、悪魔と比較します。 「あなたは救い主、生きる神の子です!」は答えの素晴しさとしては満点中の満点です。 「主よ、とんでもないことです。 そんな事があってはなりません」その答えはゼロです。 おまけに咎めと注意まで! たとえイエスがペトロをはねつけられるとしても、イエスは砂漠で悪魔にされたように、彼を拒否なさいません。 イエスはただペトロに後ろに下がって、共に留まるように求められます。 それは本当の弟子になるのを学ぶためです。

 キリストの弟子であるとは、私達が望むキリストの姿によってではなく、ありのままのイエスを受け入れる事です。 弟子であるとは、イエスの道を彼について行くことであり、私達が行きたい道をイエスに無理に行かせることではありません。 イエスを信じるとは、イエスが私達に下さるものを受ける事であって、私達が彼から受けたいものを受ける事ではありません。 本当の信徒は神に命令したり、忠告したりしませんが、自分の信仰と信頼を大きくするのに必要な賜物として、日常生活の一つ一つの出来事を謙遜に受け取ります。


  信じるとは、いつも改心の道です。 しかし残念な事に、私達は非常に度々ペトロのようにします。 神のなさり方を批判し始める時、この信頼の欠如から、私達の道に自分でつまずきの石を置くことです。神にその振る舞いを指示しようとしますが、それは悪魔のようなものだとイエスは警告されます。 この罠を避けるために、どうしても必要な事は、毎朝目を覚ました時に「主よ、今日私が何をするのをお望みですか? 今日私にお望みになるのは何ですか? それをやり遂げる為に聖霊の力を下さい」と神にお願いする知恵を持つことです。

 キリスト者であるとは、易しい道を取る事ではありません。 神のお望みを成し遂げる為にイエスに従い、福音を宣言するのですが、それは簡単ではありません。 第一の書簡で預言者エレミヤは、一日中嘲笑の的になることを訴えています。 第二の書簡で聖パウロもまた度々迫害され、私達が神に私たち自身と命を捧げるように勧めています。 というのは神のみ言葉の宣言にはいつも危険が付きまとうからです。 ですからイエスは私達に自分の十字架を持って彼に従がう勇気を取るように勧めています。 自分の十字架を取るとは、重くて望まない何かを持つ事ではありません。 反対に、全く単純に愛の中でその人生を生きようと望むことです。 十字架とは私達の為の神の愛の具体的な印以外の何ものでもありません。

 信頼をもって、私たち自身の弱さを受け入れながら、私達は神の思いがけない道を選び愛する事を学ばなければなりません。 私達はまた他の人達をありのままに受け入れ、彼らが私たち自身の道に入ってくるのを恐れないように、つまり私達の人生で場所を取られるのを恐れないようにしましょう。 たとえ、それらがある日、思わぬ障害の石となる危険があってもです。 キリストが私達を愛されたように愛すること、余す所なく愛することは、時々、苦しみと幻滅の原因となります。 しかしながら、愛の秘密はそこにあります。 幸福の秘密は、他の人をありのままに愛しながら、神をありのままに愛する事です。 このようにして人は本当にキリストの弟子となります。 この道を歩く事を拒否する事は、間違いなく、神にとっても、他の人にとっても、躓きの石、スキャンダルの的となることです。

 神は私達の幸福を望まれ、それは神ご自身のうちに根を下ろしますます。 この幸福は私たちがお互いに与える優しい行いや言葉すべてによって、実現するものです。 イエスの後について忠実に歩むために必要な力を、いつも神のうちにだけ私たちは見出す事が出来ます。 聖パウロは「聖霊も弱い私たちを助けてくださいます・・・聖霊は神のみ心に従って、聖なる者たちのために取り成してくださるからです」(ロマ
82627節)と私達に勧めています。 「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、なにが善い事で、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。  アーメン。

               

   


                     
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